2013年11月

「余山貝塚幻視」

 余山貝塚と私のかかわりは、半世紀余り前、
「余山で貝塚が発見されたらしい(1959〔昭和34〕年の国学院大学などによる発掘のこと)。行ってんべー」
と、一つ年長の幼馴染と私との二人の小学生は、おにぎりと水筒を下げ、1里半余りを歩いて、余山へ・・・
でした。


        【野尻1号墳(前方後円墳)】         銚子駅からJR成田線で二つ目、椎柴駅に降り立つと、南側に
野尻一号墳は、の幅いっぱいに下総台地が広がり台地北辺の海食崖を遠望することができます。
 この崖の頂部(以前、銚子海岸局の送信所≪「椎柴無線」とも通称されていた≫があった付近)には、「野尻一号墳」と呼ばれる前方後円の古墳があります。

 このことから、椎柴駅の周辺、銚子市野尻町のあたりは、古代から栄えた集落であったものと想像され、野尻から、古くからの道、利根川や奥鬼怒湾に由来する砂州の頂部にあったであろう道を、南東方向へ2km余り辿ると、「余山貝塚」に達することができます。

 余山貝塚は、縄文時代の後期から晩期(紀元前2600~300年頃)にかけての遺跡で、貝や魚、獣、鳥の骨、土偶など、多彩な出土品があります。

 以下に、縄文時代の地形や、貝塚からの出土品などから、当時の余山を幻視してみます。
 
 『 余山貝塚幻視 』

 縄文の人々の朝は早い。                                          【余山貝塚】    
余山貝塚Ed 朝日が奥鬼怒湾の入り江に昇る頃、目の前の遠浅の海では、チョウセンハマグリなど砂浜の貝類が採取され、穏やかな内湾に仕掛けた網には、クロダイやスズキ、今朝はアシカまで掛かっており、大漁の小舟(丸木舟)が帰って来る。

 家々からは朝餉の煙が立ち昇り、集落の後背地の湿地(現在の水田)では、カモやアホウドリなど水鳥がエサをついばみ、乱舞している。
 お日様がその位置を高くする頃、子供たちを連れた人々が木の実の採取に、海食崖の不透層から湧き出る清水を横目に、坂道を登る。
 男達は、下総台地の平原を駆け巡り、シカを追い、イノシシを捕える。

 やがて、籠いっぱいの木の実、獲物を肩にかついで意気揚々と引き上げてきた人々で、集落は賑わう
 夕日が空を紅く染める頃、北関東の人々が、鬼怒川から利根川を小舟で下り、余山に到着。
 双方の特産品の交換と宴。余山の特産品「貝製腕輪」は、いつも人気度ナンバーワン。
 縄文時代に栄えた余山、古墳時代に栄えたであろう野尻、その関りへと興味は尽きない。           

                              【文 & 写真(野尻1号墳): 宮内 秀

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近世銚子の変遷とジオパーク運動

 大昔、銚子の主要部は、旧飯沼村(飯沼観音から黒生まで)であった。     【銚子の浜 外浦_歌川広重画】下総銚子の浜-外浦_安藤広重Ed
1895年、銚子町や西銚子町に対し、飯沼村は、単独で本銚子町を名乗った経緯がある。
 参考までに1887年の戸数を見ると、新生村408戸、荒野村(興野村)817戸、今宮村343戸、即ち、銚子町を構成する3村合計1,568戸に対し、飯沼村は3,072戸であった。
 天正年間、飯沼村は僅か9戸の寒村であり、1590年家康が関東に移封され、1594年から利根川改変に着手し、1654年利根川東遷が完了したとされているが、飯沼村は、1593年23戸、1655年68戸の記録がある。
 ヒゲタ(1616年)、ヤマサ(1645年)は、東遷以前の創業とされているが、初期は果してどの程度商売として成り立ったか、判っていない。
 その后1656年、崎山次郎右衛門が飯沼村に住みながら、外川港作りに乗り出し、1661年に完成を見るとともに、紀州人の集団移転も本格化し、1752年には飯沼村は1,774戸に達した。
 漁業は常に豊漁とは限らない。不漁となり、次郎右衛門が紀州に戻ったりして、1802年、飯沼村は1,261戸まで減少した。
 その后は増加を続け、1886年、3,274戸となった。
 尚、安井算哲(渋川春海)が犬吠埼で天体観測したのは1662年、伊能忠敬が犬岩のところで富士山の方位計測をしたのは1801年、更に、浜口梧陵の『稲叢の火』は1854年の事であった。
       【飯沼観音仁王門前_昭和初期】          そして、1933年の3町1村合併で、銚子市となった。この時、9,210戸、44,366人の記録がある。飯沼観音仁王門前_門前町Ed
 更に、高神村・海上村・船木村・椎柴村・豊里村・豊岡村が加わり、旭や飯岡との一部入れ替があったりして、1965年、20,533戸、91,492人となった。ただし、このうち3万人程度が編入分である。
 その后は、少子化による人口減と、小家族化が進み、2013年12月1日現在、28,075世帯(戸)、68,253人ととなっている。
 これよりみて、編入分を除外すると、既に、銚子市ができた頃とは異なり、それ以前の大正年間ないし昭和初期の人口となっているのではないかと考えられる。
 そして今后は、全国的な人口減もあって、2020年59,409人、2025年53,684人、2030年47,891人、2035年42,264人、と想定され、人口的には大正明治時代に戻ると考えられる。
 このような人口減の時代にあって、銚子市だけに人口集中を求めることは夢物語に過ぎないのではないか。
 交流人口の増大によって、興隆を図っていくべきではないか。
 そのためには、銚子を売り込み、銚子に来ていただき、銚子の特色を認めてもらい、楽しんでもらいたいものである。
 その為のジオパークと考えられ、これを拡大し、推し進めていきたい。具体策について、皆で話し合い、進めていこう。

 数字の出典 : (1) 永沢 謹吾著 『利根水運と銚子』
           (2) 2013.10.11付 市政報告会資料
                                                        【文 : 加瀬 博一】

▼ 読者の皆様へ、加瀬さんからの伝言です : 上記の内容について、コメントを期待しています。また、歴史的な記述なので、思い違い等あれば、ご指摘ください。

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