大昔、銚子の主要部は、旧飯沼村(飯沼観音から黒生まで)であった。     【銚子の浜 外浦_歌川広重画】下総銚子の浜-外浦_安藤広重Ed
1895年、銚子町や西銚子町に対し、飯沼村は、単独で本銚子町を名乗った経緯がある。
 参考までに1887年の戸数を見ると、新生村408戸、荒野村(興野村)817戸、今宮村343戸、即ち、銚子町を構成する3村合計1,568戸に対し、飯沼村は3,072戸であった。
 天正年間、飯沼村は僅か9戸の寒村であり、1590年家康が関東に移封され、1594年から利根川改変に着手し、1654年利根川東遷が完了したとされているが、飯沼村は、1593年23戸、1655年68戸の記録がある。
 ヒゲタ(1616年)、ヤマサ(1645年)は、東遷以前の創業とされているが、初期は果してどの程度商売として成り立ったか、判っていない。
 その后1656年、崎山次郎右衛門が飯沼村に住みながら、外川港作りに乗り出し、1661年に完成を見るとともに、紀州人の集団移転も本格化し、1752年には飯沼村は1,774戸に達した。
 漁業は常に豊漁とは限らない。不漁となり、次郎右衛門が紀州に戻ったりして、1802年、飯沼村は1,261戸まで減少した。
 その后は増加を続け、1886年、3,274戸となった。
 尚、安井算哲(渋川春海)が犬吠埼で天体観測したのは1662年、伊能忠敬が犬岩のところで富士山の方位計測をしたのは1801年、更に、浜口梧陵の『稲叢の火』は1854年の事であった。
       【飯沼観音仁王門前_昭和初期】          そして、1933年の3町1村合併で、銚子市となった。この時、9,210戸、44,366人の記録がある。飯沼観音仁王門前_門前町Ed
 更に、高神村・海上村・船木村・椎柴村・豊里村・豊岡村が加わり、旭や飯岡との一部入れ替があったりして、1965年、20,533戸、91,492人となった。ただし、このうち3万人程度が編入分である。
 その后は、少子化による人口減と、小家族化が進み、2013年12月1日現在、28,075世帯(戸)、68,253人ととなっている。
 これよりみて、編入分を除外すると、既に、銚子市ができた頃とは異なり、それ以前の大正年間ないし昭和初期の人口となっているのではないかと考えられる。
 そして今后は、全国的な人口減もあって、2020年59,409人、2025年53,684人、2030年47,891人、2035年42,264人、と想定され、人口的には大正明治時代に戻ると考えられる。
 このような人口減の時代にあって、銚子市だけに人口集中を求めることは夢物語に過ぎないのではないか。
 交流人口の増大によって、興隆を図っていくべきではないか。
 そのためには、銚子を売り込み、銚子に来ていただき、銚子の特色を認めてもらい、楽しんでもらいたいものである。
 その為のジオパークと考えられ、これを拡大し、推し進めていきたい。具体策について、皆で話し合い、進めていこう。

 数字の出典 : (1) 永沢 謹吾著 『利根水運と銚子』
           (2) 2013.10.11付 市政報告会資料
                                                        【文 : 加瀬 博一】

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