余山貝塚と私のかかわりは、半世紀余り前、
「余山で貝塚が発見されたらしい(1959〔昭和34〕年の国学院大学などによる発掘のこと)。行ってんべー」
と、一つ年長の幼馴染と私との二人の小学生は、おにぎりと水筒を下げ、1里半余りを歩いて、余山へ・・・
でした。


        【野尻1号墳(前方後円墳)】         銚子駅からJR成田線で二つ目、椎柴駅に降り立つと、南側に
野尻一号墳は、の幅いっぱいに下総台地が広がり台地北辺の海食崖を遠望することができます。
 この崖の頂部(以前、銚子海岸局の送信所≪「椎柴無線」とも通称されていた≫があった付近)には、「野尻一号墳」と呼ばれる前方後円の古墳があります。

 このことから、椎柴駅の周辺、銚子市野尻町のあたりは、古代から栄えた集落であったものと想像され、野尻から、古くからの道、利根川や奥鬼怒湾に由来する砂州の頂部にあったであろう道を、南東方向へ2km余り辿ると、「余山貝塚」に達することができます。

 余山貝塚は、縄文時代の後期から晩期(紀元前2600~300年頃)にかけての遺跡で、貝や魚、獣、鳥の骨、土偶など、多彩な出土品があります。

 以下に、縄文時代の地形や、貝塚からの出土品などから、当時の余山を幻視してみます。
 
 『 余山貝塚幻視 』

 縄文の人々の朝は早い。                                          【余山貝塚】    
余山貝塚Ed 朝日が奥鬼怒湾の入り江に昇る頃、目の前の遠浅の海では、チョウセンハマグリなど砂浜の貝類が採取され、穏やかな内湾に仕掛けた網には、クロダイやスズキ、今朝はアシカまで掛かっており、大漁の小舟(丸木舟)が帰って来る。

 家々からは朝餉の煙が立ち昇り、集落の後背地の湿地(現在の水田)では、カモやアホウドリなど水鳥がエサをついばみ、乱舞している。
 お日様がその位置を高くする頃、子供たちを連れた人々が木の実の採取に、海食崖の不透層から湧き出る清水を横目に、坂道を登る。
 男達は、下総台地の平原を駆け巡り、シカを追い、イノシシを捕える。

 やがて、籠いっぱいの木の実、獲物を肩にかついで意気揚々と引き上げてきた人々で、集落は賑わう
 夕日が空を紅く染める頃、北関東の人々が、鬼怒川から利根川を小舟で下り、余山に到着。
 双方の特産品の交換と宴。余山の特産品「貝製腕輪」は、いつも人気度ナンバーワン。
 縄文時代に栄えた余山、古墳時代に栄えたであろう野尻、その関りへと興味は尽きない。           

                              【文 & 写真(野尻1号墳): 宮内 秀

▼ 編集担当より ; コメントは、このブログのコメント欄に直接、書き込むか、または、以下のメールアドレスへのメールとしてお寄せ下さい。
             info@choshi-geopark.com